天気の子|主題歌「グランドエスケープ」の歌詞のかなり深い意味をネタバレ考察!

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こんにちは!
新海誠監督の最新作天気の子見てきました!^^
前作の君の名はも大好きですが、今回の天気の子も良かったですね〜。

何が良かったかって、やっぱりRADWIMPSの音楽は外せません。
途中でこれは映画なのか?それともRADの長編MVなのか?と勘違いしてしまうほど、映像と音楽がマッチしていて、もう最高でした。

その音楽の中でも大好きなのが「グランドエスケープ」

映画を見終わった後からYouTubeでヘビロテしてましたが、この度正式にGooglePlayミュージックで曲購入しました笑

で、何がいいかって言うと、メロディーとかアレンジももちろん最高なんですが、その歌詞がまた意味深で想像力を掻き立てられるんですよね〜。

そこで今回は、天気の子主題歌の「グランドエスケープ」の歌詞の意味について色々と考察してみました!

こういうのって、色んな人の意見を聞きながらあーだこーだ言うのが楽しいので、何か気づいたことやこうなんじゃないかなー、というご意見、単純に感想などあればどしどしコメント頂けると嬉しいです^^
みんなで一番しっくりくるグランドエスケープの解釈を作れたら最高ですね。

※ここから先は映画の結末や重要なネタバレを含むので、まだ映画を見ていないと言う方は、是非映画を見た後に読んでみてくださいね。

グランドエスケープ考察前の前提知識

ということで、早速考察に入っていきたいのですが、こういう詩っていうのは文章そのものよりもその背景がとっても大事。文脈によって意味が全然違ってきますからね。

そういう意味でまず超重要なのは、このグランドエスケープが映画の中でいつ流れたのか?というところ。
これは、巫女である陽菜が東京の異常気象を治めるために天に人柱として召された後、帆高が陽菜と天界で出会うシーンで流れました。

ということは、基本的にこの詩はほだかと陽菜の2人の感情や心の動きを唄っていると、そういう前提で考察を進めていきたいと思います。

グランドエスケープ歌詞の考察

まずは、歌詞の全文から。

グランドエスケープ

空飛ぶ羽根と引き換えに 繋ぎ合う手を選んだ僕ら
それでも空に魅せられて 夢を重ねるのは罪か?

夏は秋の背中を見て その顔を思い浮かべる
憧れなのか、恋なのか 叶わぬと知っていながら

重力が眠りにつく 1000年に一度の今日
太陽の死角に立ち 僕らこの星を出よう

彼が目を覚ました時 連れ戻せない場所へ
「せーの」で大地を蹴って ここではない星へ

行こう

もう少しで運命の向こう もう少しで文明の向こう
もう少しで運命の向こう もう少しで

夢に僕らで帆を張って 来るべき日のために夜を超え
いざ期待だけ満タンで あとはどうにかなるさと 肩を組んだ

怖くないわけない でも止まんない
ピンチの先回りしたって 僕らじゃしょうがない
僕らの恋が言う 声が言う

「行け」と言う

第1段落

空飛ぶ羽根と引き換えに 繋ぎ合う手を選んだ僕ら
それでも空に魅せられて 夢を重ねるのは罪か?

「空飛ぶ羽根と引き換えに」といっているので、これは陽菜を助けるために空に昇った帆高と、人柱として空に帰る運命にある陽奈が空の上で出会い、手を繋いで地上に戻るというシーンがあったのでその描写でしょう。

 

次がちょっと解釈が迷うところ。

ただ、映画の中で帆高が陽菜を助けたせいで東京から晴れ間が無くなってしまったことに罪悪感を感じていると捉えられるシーンがありました。

そこを踏まえると、

今や太陽が見えなくなってしまったこの世界で、そしてそれは自分たちのせい(陽菜が人柱となるのを拒否したため)だという原罪を背負いながらも、それでもまだ晴れの日を夢見てしまう、ということ。

 

晴れの日を夢見てしまう、と推察したのは、帆高と陽菜が晴れ間に対して非常に強い喜びを感じていたことが見受けられる描写がいくつもあります。

ただ、素直な気持ちでは晴れ間が出るのをもう一度見たいと願いながらも、それを引き起こしたのは自分自身だという罪悪感。こういうところから「夢を重ねるのは罪か?」という一文に繋がっていきます。

第2段落

夏は秋の背中を見て その顔を思い浮かべる
憧れなのか、恋なのか 叶わぬと知っていながら

ここも迷った部分の一つ。2つ目の文章で憧れなのか、恋なのか、という一文があるので夏と秋は帆高と陽菜の比喩なのかな、と思いましたが、夏と秋のどちらも陽菜とほだかを表しているとうするのはちょっと苦しいですね。

 

ということで、ほかに夏や秋を表す人物がいるか?と思って人物名を確かめてみます。登場人物の中に夏が入っているのは夏美がいますが、秋がついたり秋を象徴したりする人物が見当たりません。

なので、これは季節の移り変わりや晴れ間が無くなった現在の状況とその心情を語っていると捉えるのが自然です。

 

映画の舞台が夏だっため、この夏とは陽菜が地上に返って晴れ間が出なくなった状態のこと。

叶わぬというのは、もう季節が夏から秋へ巡ることはない、この雨も止むことはない、焦がれて思い浮かべるけれど、それはもう叶わない、というやるせない感情を表しているように取れます。

第3段落

重力が眠りにつく 1000年に一度の今日
太陽の死角に立ち 僕らこの星を出よう

ここは一番の難関でした。まず、(1000年に一度の)今日、と言っているので重力が眠りにつくような現象は今日起きた、ということ。

この日、というかこの曲が流れているこの瞬間何が起こっているのかというと、陽菜は空の上にいて、その陽菜をほだかが空の上まで連れ戻しに来ています。

つまり、重力が眠りにつくとは、こんな感じで空の上に2人で来ることができる、という意味。

 

太陽の死角に立ち、というのは晴れ間の無くなった地上のこと。その地上を出て、空の上で陽菜とほだかか再会する、というところを表現しているようです。

 

 

で、ここまでは割とすんなり行ったんですが、1000年に一度ってどういうことなのか?という壁にぶち当たります。

単純にこんな異常気象は滅多に起こらない、という意味で1000年と表現しているのかとも思いましたが、1000という数字にもっと深読みしてしまいたくなる理由が隠されています。

 

それが、前作の「君の名は」で三葉の住む街を消し去ったティアマト彗星。ティアマト彗星も「君の名は」の中で1000年に一度接近するとされていました。

「君の名は」では、一度隕石が落ちて三葉も死んでしまっていた、という運命を瀧が知り、その運命に逆い、三葉を救う選択をします。そして、結果的に運命は変わり、三葉は生き残り、現在という同じ時間軸で出会うことができました。

この「君の名は」の瀧と三葉は1000に一度の悲劇の運命を回避するために生まれてきた、そういう設定(見方)もできると思うんです。

 

この設定とダブるんですよね、天気の子の帆高と陽菜も。

こういう見方で見てみると、陽菜はもともと異常気象を鎮めるための巫女としての役目を果たすために生まれてきました。

100パーセントの晴れ女という能力を持つ反面、東京で起こる1000年に一度の異常気象を鎮めるために人柱になる、という運命があったのです。

でも、帆高はその陽菜のある意味悲しい運命に抗うことを決意します。

 

帆高はこの陽菜の運命を変えるために生まれてきました。

 

ただ、君の名はとの違いは、

1人の運命を変えることで東京の水没という犠牲が生まれたこと。

だから否定的な意見も多いのですが、どちらも強い衝動(というかある種の使命感)をもって運命を変えることを選んだ、ということです。

 

長くなりましたが、そいういった経緯から1000年に一度とは、この異常気象を鎮めるために人柱として陽菜が空へ昇る日(と運命づけられていた日)と捉えることができます。

第4、第5段落

彼が目を覚ました時 連れ戻せない場所へ
「せーの」で大地を蹴って ここではない星へ

行こう

ここで大事なのは誰が主体となっているか?です。

今まではどちらかというと、帆高目線で語っているような文脈でしたが、ここから一転して陽菜が主体となっている文章となっています。

それがわかるのが冒頭の文。「彼が目を覚ました時」とあるので、これはホテルで朝を迎えたほだかが、陽菜の姿が見えないことに気付く、というシーンが作中でもありました。

 

つまり、陽菜は自分の運命を受け入れて人柱となる覚悟を決めていたことが分かります。

最後の「行こう」という短い一言に、その強い覚悟が見てとれるようですね。

第6段落

もう少しで運命の向こう もう少しで文明の向こう
もう少しで運命の向こう もう少しで

ここは主体がどちらか少し迷うところ。帆高が陽菜を求めて空の上へ登っていくシーンを描写している、とも捉えられなくもないですが、前の段落と次の段落の繋がりとして自然なのは、陽菜の心情を表していると取ること。

帆高が助けに来るまでは、陽菜はもうほぼ運命通り人柱となることを受け入れていたわけです。

そして、帆高が来る直前まで空の上でその準備は進んでいたはず。そこで、もう少しで運命とおり私は人柱となり、東京の異常気象を治める。そして、地上(=文明)には戻れなくなる、と捉えられます。

第7、第8、第9段落

夢に僕らで帆を張って 来るべき日のために夜を超え
いざ期待だけ満タンで あとはどうにかなるさと 肩を組んだ

怖くないわけない でも止まんない
ピンチの先回りしたって 僕らじゃしょうがない
僕らの恋が言う 声が言う

「行け」と言う

いよいよ最後の段落まで一気に行きます。

ここでも大事なのは誰が主体となっている文章なのか?という部分。直前の段落までは人柱となることを受け入れて粛々とその時を待つ陽菜の心情を表していました。

 

そして、ここからは曲調も一気に変わって一番の盛り上がりを見せる場所、つまり一番のクライマックスだということがよく表されています。

では、この映画の一番のクライマックスとはどこか?それはもちろん、ほだかと陽菜が空の上で出会うシーンです。

 

つまり、ここからは帆高の陽菜に対する「一緒に帰ろう!」という熱い、熱い想いが表されていると捉えられます。また、「僕ら」とあるので、ここは帆高の説得に応じて一緒に運命を変える決意をした陽菜のことも表しているともいえます。

 

来るべき日とは、もちろん今日この日。陽菜が人柱となることを運命づけられている日です。

 

そして、その運命を覆すために、その運命に抗って陽菜を連れ戻すために、帆高の今までの人生、生きてきた日々があったのです。

 

嫌気がさして島を出て東京に来たことも、空腹で死にそうなりながら立ち寄ったハンバーガーショップで陽菜に会ったことも、須賀と出会ってオカルトライターとして働き始めたことも、そしてお天気ビジネスによって陽菜を人柱にしてしまったことさえも。

 

全てがこのために生まれてきたんだと、少なくともあの瞬間帆高はそう感じていたはずです。

 

つまり、この瞬間(=来るべき日)のために今までの毎日(=夜を越え)全てがあって、そのために生まれてきたんだとさえ言えるような魂の衝動を感じたのでしょう。

それがよく表されているのが次の一文。グランドエスケープの中でも、私が一番好きなフレーズです。

怖くないわけない でも止まんない

そう、怖くないわけないんです。運命に抗うこと、そして地上の世界の秩序がねじ曲がったままになってしまうこと、そしてそれが自分達のせいだということ。

いざ期待だけ満タンで あとはどうにかなるさと 肩を組んだ

この辺はもう理屈じゃないですね。頭で考えてたらできないわけです、こんな狂気じみたこと。

ピンチの先回りしたって 僕らじゃしょうがない

後先のことなんて考えてないわけです。

僕らの恋が言う 声が言う
「行け」と言う

ここで帆高や陽菜が運命を覆して、東京の水没を犠牲にしてまで二人の恋(=繋がり)を選ばせたのは何だったでしょうか?

世間体?倫理観?正しさ?

そういう頭で考えたり、シュミレーションしていたら到底できなかったでしょう。

 

心の奥底、魂の中から湧き出る衝動に従ったんです。

まとめ

はい、ということで壮大にネタバレしながら解説してきましたがいかがでしたでしょうか笑

もちろん、これは私の解釈なのでこれは違うんじゃないかな〜、みたいな意見もあって当然だと思います。

 

特に物語の結末で世界よりも陽菜を選んだほだかに賛否両論あったりしますが、これも新海監督からの一つのメッセージだと思うんですよね。

帆高が取った行動の是非はともかくとして、人間誰しも魂が求める衝動って必ずあるということなんじゃないかなと。

 

その衝動って世間的に見ると避難を浴びることにもなったり、時には自分自身がひどい目にあったりすることになるかもしれないけど、でも自分はこのために生まれてきたんだ、と思えるようなことが必ずあります。

それがなかなかできにくい息苦しい世の中だけど、それでもその衝動にまっすぐに生きることって大事だよね、みたいな。

 

ということで、ぜひぜひコメントでみなさんの見解も良かったら聞かせてください^^

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